智玄さんが上山して2週間。元気でがんばっているでしょうか。連絡の取りようがないので「便りのないのは良い知らせ」と思うしかないのです。ある期間が終わるまでは、こちらから電話をかけても取り次いでもらえませんし、手紙も渡してもらえません。檀家さんとの話でよく出てくるのがこのことで、ケータイも持っていけないのかと皆さんびっくりされます。お金も持っていけませんので、途中で帰ろうにも電車賃もありません。では、いったい何を持って行っているのかということですが、本山から指定されたもの以外は一切ダメなのです。本山から送られてくる「掛搭(かた)志願者心得」には、こう記されています。
〇袈裟行李(けさこうり) 首から下げる前の行李の中身は、
・お袈裟と袈裟袋 ・龍天善神軸 ・血脈 ・涅槃金千円 ・保険証 ・印鑑 ・ゆうちょ通帳 ・応量器(おうりょうき 食器のこと)一式 ・上山許可状 ・堂則
〇後付行李(あとづけこうり) 写真のように背中に背負う行李の中身は、
・坐具 ・浄髪具(安全カミソリと替え刃) ・日用品(裁縫道具、歯ブラシ、歯磨き剤、』風呂敷、白無地タオル2枚) ・替えの下着2組 ・襪子(べっす) ・足袋
と、これだけです。
蒲団類や作務衣、着物、下着、祖録書籍などはあらかじめ宅配便で送ります。この宅配便の中にケータイやお菓子などを忍ばせればとも思いますが、荷物点検があり見つかると大目玉をくらうことになります。永平寺の大目玉は相当大変な罰を受けることになりますので、親心でそっと、というわけにはいかないのです。要するに修行に不要なものは一切ダメということです。必要最低限で頑張ってもらうしかありません。
2月19日、智玄上座さんが安居修行のため、永平寺へ出発しました。威儀(いでたち姿)は、写真のように、着物とお衣を短くたくし上げ(上げ手巾と言います)、脚絆にわらじを履き、行李を首からかけ、座蒲を持ち、網代笠をかぶります。まさしく雲水そのものの姿です。朝8時の出発でしたが、檀家や近所の方々など20人ほどが見送りに来ていただきました。智玄さんも気持ちが引き締まったようでした。19日午後に門前の地蔵院に入り、上山点検などを受け、永平寺には21日に上がる予定です。彼のような入門志願者僧は6~8人ずつ組になって三、四日おきに上山していきます。彼は2番上山組です。1番上山は18日に上山したようです。
山門ではこのような光景が展開されると思います。木版を3打した後、係りの僧が出てくるまでかなりの時間待たされます。ようやく出てきた僧に「この永平寺に何をしに来た!」と問われ、「修行です」と応答すると「修行とは何か」と畳み掛けられます。彼は何と応えるのでしょうね。それらしいことを述べても「その修業は永平寺でなくてもできるだろ。さっさと帰って師寮寺で修行しろ。」と一喝されます。それをなんとか食い下がって入門を請うわけです。これが第一の関門。山内に入ると旦過寮(たんがりょう)で一週間缶詰状態で朝から晩まで坐を組まされ、生活の基本をみっちりと叩き込まれます。これが第二の関門。旦過寮を出て衆寮に入り、鐘洒という鳴らしものの配役についてからも第三、第四の関門が待っています。・・・・・今頃何をしているのでしょう。がんばれ!
前々回の「正法御和讃」の続きです。「花の晨に・・・」はお釈迦様と迦葉尊者のお話しでした。
第2節の「雪の夕べに臂を断ち」についてお話しします。これは禅を中国に伝えた達磨大師とその二祖慧可(えか)禅師のお話しです。達磨大師は中国嵩山少林寺で面壁九年の坐禅修行をされておられました。そこへ慧可様が、教えを請うて弟子入りをお願いするのですが、大師は返事もせずただ坐禅をするばかりでした。大通2年(526年)12月9日、厳冬の雪の中、慧可様は自らの臂を切断し、求道の切なる思いを示されました。達磨大師はその覚悟に応えられ、正法をお伝えになられたというお話しです。
慧可様のこの覚悟がなければ、私たちはこうしてお釈迦様以来の正伝の仏法に遭うことはできなかったのです。
修行道場では、12月1日から8日まではお釈迦様の成道にちなんで坐禅三昧の接心修行をしますが、翌日の12月9日は慧可様の覚悟を自分にも置き換えて「断臂接心」を行うのです。
覚悟を示すには、内面だけの覚悟では人に伝わりません。身なりや服装を変えることが一般的です。慧可様の断臂とまではいかなくとも、頭を丸るめるとか、ひげを落とすとか、白装束をまとうとかですね。(号泣県議が頭を丸めたらしいですがどうも覚悟を示したのではなさそうですが)。当寺の智玄上座さんは永平寺上山に向けてさっぱりと浄髪しましたよ。