写真:今日の三條新聞に当寺の広告が載りました。永代供養墓の広告がメインなのですが、「あじさい百種」もちゃっかりと宣伝しました。どれだけの方の目にとまったことか。今日来山された方は「新聞は読んだが広告は気が付かなかったなあ」とのことでした。まあ、ちょっとでも、どなたかからのリアクションがあればとおもっていますが・・・。
「草取り作務」の思い出です。旦過寮を出て最初の作務が草取りでした。山門から法堂までをきれいにという指示でしたので、張り切って取り始めました。あらかた目ぼしい草は取り終わって休憩かなと思いきや、誰一人休む者はいません。他の修行僧はよく見るとほんの小さな、生えたばかりのような草まで丁寧にむしり取っているのです。私の感覚では「草」の範疇に入らないようなものまでとっているのです。そんなゴミみたいなものなど取らなくとも十分奇麗なのに・・・と思いましたが、暫到ぺーぺーの身としては右習いをして再び取り始めました。その日は午後からも草取りで延々と取り続けました。もう疲れて疲れて本当につらかったです。私の取った跡は他の人に比べてあまり奇麗ではありませんでした。
後で古参和尚に言われました。「きれいにしようと思って草取りをするのではない。草があるからだだとるだけなのだ」と。そうは言われても、当時は本当に草取り作務が嫌でした。
写真:「恋物語」が咲き始めました。品種によって早い遅いがありますが、恋物語ってこんなに早かったっけ、という感じ。
「禅の友」5月号の大本山永平寺ご本山だよりに「掃き作務」についてこんな記述がありました。
『伽藍の周りには杉の巨木が茂っており、修行僧たちは広い境内に落ちている杉の葉を掃き続けます。(中略)坐禅を組むのと同様に作務は大切な修行の一部です。皆、黙々と下を向き細かいところに挟まったものまできれいに取り除きます。掃き終わった後の達成感を感じる間もなく次の場所、次の作務へと移っていきます。(後略)
ただひたすら作業に没頭するのが作務です。ゴミがあるから掃く、それ以上でもなくそれ以下でもありません。それだけです。作務が「動く坐禅」と言われる所以です。私は修行中「草取り作務」に強烈な思い出があります。・・・次回へ続く。