昨日(2月8日)、「地蔵様の頭巾を縫う会」を行いました。11人からご参加いただきました。午前中の半日で頭巾と前掛けをたくさんこしらえてもらいました。
(その時の様子を写真を撮ったのですが、どなたかの顔がバッチリ写っているものばかりでしたので、ここにアップするわけにいかず、ウクライナ国旗の六地蔵様の写真でご勘弁を。)
さて、私たちがあの世に旅立つと、四十九日目に六道のどこに転生するかを閻魔大王がその判決を下すと言われています。六道とは、天上界、人間界、修羅界、餓鬼界、畜生界、地獄界の六つの世界のことを言います。この六道にお一人ずつ救いの仏がいる、それが地蔵菩薩です。ですから六地蔵なのです。このようなお話しから日本各地に地蔵信仰が広まっていったということです。
実は閻魔大王も地蔵菩薩の化身であると言われています。頭巾と前掛けを縫われた方々の善行修行は、閻魔様の目にとまっていることでしょう。
前々回に紹介した禅語「柳緑花紅」の続編です。本堂の襖にはもう一句「明月清風」とあります。春の禅語に対して今度は秋の語です。
この句は本来「清風拂明月 明月拂清風」(せいふうめいげつをはらい、めいげつせいふうをはらう)という言葉です。拂うは払うとほぼ同義と考えてください。秋のすがすがしい夜、風は月を払い、月は風を払う。つまり風と月はどちらが主体でどちらが客体ということはない。互いに主となり互いに客となっているというのです。互いが互いにいい影響を与え合い、時として一体となり時として個別になる状態とも言えます。さらに言えば、風と月は対立しあうようなものではありません。風が月を払いのけ自分だけの夜としない。と同時に、月は風を払いのけ自分だけ輝こうともしない。うーん、わかったようでわからない、まさしく禅問答!
敵か味方か、善か悪か、というような二元対立ではありません。自分の懐に相手を呼び込んだり、相手の懐に自分が飛び込んだりしながら自分というものを生かしていく。これが禅的な生き方なのです。とりあえず相手とともに生きるために「オレがオレがの【が(我)】を捨てて・・・」から始めたいと思います。
今日から2月です。冬ももう少しでしょうか。1月は行く、2月は逃げる、3月は去る、と言われるように光陰矢の如し、あっという間です。
写真はお百度参りの数え札です。昭和初期のもので、隣家の先代の御内儀が寄進されたものです。札を一枚ずつ右にずらしていき数を数えるのに使います。当時は地蔵堂に掛けてあってお参り用に使われていたようですが、今はお百度参りの方はおられませんので不要気味です。除夜の鐘の時の数え札としてしか使い道がありませんでした。
ところが、最近新しい使い道ができまして。このところ毎朝のように朝課にお参りする方があって、その方のお参り回数に使っています。写真では上段札が8枚ずれていますが、今朝で10枚になりました。ご本人もお寺参りをする張り合いができたようです。この時期の5時半は寒いですよ。
中国宋代の詩人、蘇東坡は「柳緑(やなぎはみどり)花紅(はなはくれない)真面目(しんめんもく)」と詠みました。「春になれば柳の木は緑色の葉を揺らし、紅色に咲いた花は美しいばかりである。これぞ飾らない自然美である。この風景を本当の美しさとして感じよう。」というのです。作為のない真実とは「あるがままの姿に徹して生きる」ということに他ならないのです。「柳緑 花紅」という言葉は禅では好んで使われます。写真のように、当寺でも本堂の襖に大きく書されています。ありふれた日常の風景を美しいと感じ、自然界のすべてに支えられ生かされていることに気が付けば、幸せは手の中にある。
とは言うものの・・・・。わがままで執着心から抜け出せない凡夫(の私)は、坐禅を組んでも一向にその心境に達しません。まあそんなに簡単にいけば苦労はないのですが。坐禅会では、坐る姿がイコール仏の姿だとの宗旨に励まされている私です。
そんな気持ちで一首。『坐すれども 来し方のなお 離れざり 柳は緑 花は紅』 (駄首失礼:良秀)