冬至十日前という言葉があるように、本当に日暮れが早くなりました。午後の4時半を過ぎるととたんに暗くなっていきます。ですが、冬至十日前を過ぎると少しずつ日が長くなるというのがこの言葉の意味です。昔の人は科学的な知識がなくとも、自然と密接な関係で暮らしていましたのでわかるのですね。ちょっと調べてみましたらやはり本当のことで、日暮れは遅くなるようです。しかし、日の出はどんどん遅くなっていって、やはり冬至が一番日が短いのですね。今年の冬至は12月22日ですから、明日が冬至十日前です。
檀家の方からゆずをたくさんいただきました。お風呂に入れてゆず湯を楽しんでいます。香りがよくて「じょんのび(ゆったりといい気もち)」です。
(写真は、お内陣の格天井です。このような格天井は珍しいのではないかと思います。お参りのときによくご覧ください。)
この時期、当地方は雨降りの日々が続きます。特に今年は雨が多く、晴れ間が少ないように感じます。
朝課(朝の勤行)でお灯しを点ける時、マッチの湿気具合で天候の悪さがわかります。最近は灯明用のチャッカマンもありますが、私はマッチの方がしっくりいきます。年始の配りものもマッチですしね。月経にお伺いして、仏壇に光照寺のマッチが置いてあるとちょっとうれしいです。
話を元に戻して・・・。このところ、マッチの湿気具合がすごくて、なかなか火が点きません。特に今朝は10本擦ってようやく火が点くような状態でした。開山堂や地蔵堂のマッチが手ごわいです。
梅雨時と今頃が一年の中でいちばん湿気を感じます。
マッチも開封したては気持ち良いほどにすっと点くのですが、知らず知らずのうちに湿気を吸い込むのですね。茶菓子のせんべいもそうですね。
湿気たマッチから話をつなげるのはやや無理筋かもしれませんが・・・
正法眼蔵随聞記の中の一節を紹介します。
「古人いわく、霧の中を行けば、覚えざるに衣湿る。よき人に近づけば、覚えざるによき人となるなり。」
(「覚えざるに」というのは、知らないうちにということです。)
(写真は今年の年始物マッチ。毎年、色を変えています。さて来年は何色かな)
光照寺のおときはおいしい! 断言します。
大きな釜で多人数分をつくるからおいしくなるのは当然なのですが、つくり手の創作意欲と手間を惜しまない愛情がこもっているからなのです。メニューを考える時からして、季節の食材と色どりと分量と味付けとさまざまな要素を勝手方衆が自分たちで考え工夫してくださるのです。大根などの煮物は前日から煮込んでくださるときがあります。おいしくならないわけがないのです。
光照寺でおときをつくる法要は、春・秋の彼岸会、春・夏・秋の地蔵講、大般若会、新盆盆参の年7回です。こんなにおいしいのに参詣者が減ってきて残念です。つくり手の張合いということもありますので、ぜひ多くの方から食していただきたいです。檀家の方でなくとも結構です。おときだけ食べに来るのでも結構です。今年は、おとき付の法要は終わりました。次は来年の春彼岸会です。皆様お待ちしています。
ところで、おときを準備するのは本当に大変です。寺院の中には、おときをやめたり、出来合いの弁当をとったりするところも多いようです。光照寺はできるだけ続けていきたいと思っています。勝手の皆さん、これからもよろしくお願いします。
(写真は、11月24日の秋地蔵講でのおとき。紅葉したどうだんつつじがワンポイントです。)
「人生いろいろ」の島倉千代子さんがお亡くなりになられました。
人の数だけ生き方があり、死に方もあります。一人の人だけでも、喜怒哀楽、さまざまなドラマがあります。最期は「私の人生いろいろでした」ということでしょう。島倉さんのご冥福をお祈りします。合掌。
「うらをみせ、おもてをみせて、散るもみじ」
良寛和尚の辞世の句だそうです。表の顔も裏の顔もぜんぶあけっぴろげて・・・ということですが、そもそも良寛和尚には表も裏もなんにも区別はなかったのでしょうね。
この句から、潔さを感じますね。
もみじの散る時期です。潔く散るもみじですが、掃き作務は大変です。朝露や雨に濡れて掃きにくいこと掃きにくいこと。
(写真は、裏庭のもみじです。)