昨日の日曜日は、朝6時から坐禅会(参禅者は6名)。10時から護持会の決算役員会。いりいろ多岐にわたって話題や質問がでましたが、三役提出の議案は可決。檀家の皆様には後日お届けします。
坐禅会の時は小雨模様でしたが、役員会が終わる頃はうっすらと白くなっていました。午後から雪がぼさぼさと降り始め、今朝は15センチ位の積雪でした。朝課を省いて今冬初の雪かきをしました。水雪というのか水分をたっぷりと含んだ重たい雪でしたので疲れる作務でした。
いよいよ雪国の生活の始まりです。法要で言えば、法要開始を告げる殿鐘(でんしょう)の打出しが鳴ったようなものですね。打出しは、中声・中声・小声・大声と打ちます。この後第一会、第二会、第三会と続き、導師の上殿となっていきます。天気予報では今週はずっと雪マークが出ています。これが第一会でしょうかね。まだまだ先は長そうです。
写真でお気づきのように、本堂屋根の落雪が危険ですので雪の時期は本堂からの入堂はできません。庫裏の玄関からお入りください。また、早々に門松が設置されました。ますがたクラブ(総合型地域クラブ)親子門松づくり活動があり主宰のHさんがお寺用に特別に作ってくださいました。毎年のことです。ありがとうございました。
ご門徒の方から「私の家は真宗の大谷派だけれど、禅宗でも○○派とかあるんですか?」と聞かれました。私は即座にNOと答えました。「本山は永平寺と總持寺の両方ですので永平寺派だとか總持寺派だとかいう人がいますが、その僧侶がどちらの本山で修行したかということであって派として分かれていないんですよ。」と言うとへえーと不思議そうな顔でした。「ほら今、自民党の裏金問題で派閥のパーティーとか言っているでしょ。派閥というのはどうしたもんなんでしょうね。必要だとはおもうけど。」彼はこの話題をしたかったようでした。
ある時、別の門徒さんで「永平寺派と總持寺派のお寺さんが一緒に法要をするなんてありえない」と強く言われる方がありました。「お西とお東が一緒にお経をあげるなんて絶対ない。まして本願寺派が混ざるなんてことあるわけない。」と頑としておっしゃいますので、(私は不在でしたので家内が)誤解を解いてもらおうと説明しましたが、どうも釈然としない感じのようでした。
人が集まればグループができる。考えの近いもの同士が仲間の結束を固める。これが派閥の始まりでしょうか。行き過ぎると他のグループを排斥したり敵対視する。人は社会的な生き物と言いますが、宿命なのでしょうか。
修証義第四章に「海の水を辞せざるは同事なり」とあります。グループを組んでもいいけれど、同事(差別しないこと)でありたいです。
写真:あじさいの鉢に板を当てました。雪対策です。今週末に雪マークが出ていますので今日ようやく作業しました。(本文とは関係ありません)
昨日、一日接心坐禅会を無事修行することができました。坐禅は暁天も含めて7炷。普段坐りなれていない身としては、少しきつかったかな。総勢12名の参禅でした。
それにしても当寺の坐禅会のメンバー恐るべし。ほぼ毎週お見えになるレギュラー陣(!)全員が何らかしらの形で参禅されました。最初から最後までフルの参禅者は5名も。一旦お帰りになって再び来られた方も2名。
最後の晩課を終えてのお茶飲みでは、互いの健闘!をたたえ合い、不思議と団結というか家族の一員というかそんなムードが漂いました。同安居の絆というにはおこがましいですが、何かそれに近い感覚を皆が持たれたようです。(同行御和讃の歌詞が浮かびます。)私もいい修行をさせていただきました。一人ではなかなかこうはいきません。今さらながらですが、達磨大師の面壁九年というのは凄すぎます。
写真:当寺名入りクリアファイル その2です。接心はまさしく只管打坐(しかんたざ)です。
「なるなるの法則」つながりで・・・・。
正月の年始物として当寺の名入れのクリアファイルを作りました。3枚組で写真はその中の1枚。菩提達磨和尚(達磨大師)の横姿に「結果自然成」の文字。そして「成るように成る」と。まさしく「なるなるの法則第1条」です。
禅語「結果自然成」は達磨和尚が弟子に伝えたとされる言葉で、本来は上語にもう一言「一華五葉開(いっけごようをひらき)」が付いています。
「一華五葉開 結果自然成」。「一つの花が厳しい気候に耐え、時期が来れば五枚の葉を開くように、何事にも精一杯取り組んでいれば、その結果はおのずと思うように成るものだ」と言う意味です。
私たちの日々の生活で、様々な岐路に立たされるとき、一華五葉を開いていれば、つまりやるだけのことを精一杯してきていたのなら、結果は自然と成るのです。その結果はどのようなものであれ受け入れることです。思っていたのと違う!と反発もあるでしょうが、それが今の自分にふさわしいのだと受け入れるのです。
「人事を尽くして天命を待つ」の感覚に近いかもしれませんが、ちょっと違います。天命は神様や仏様の御示しで自分の為してきたことの結果ではありません。「結果自然成」は自分の為してきたことの結果であるということです。「三日坐れば三日の仏」という言葉もあります。日々、仏になるべく修行です。
今日の新潟日報県央版の「こしじガイド」に一日接心坐禅会の内容が載っています。